■vol.60 自らの内に作る敵:驕り(おごり) [追記]
前回文章中に「驕り=自信」と読み取れる個所もあってか
自信を持って積極的にチャレンジする意義を否定するものだ、
自由を奪われ束縛された中でプレーしても楽しくはない、
と受け取られてしまったようですが、そうではないのです。
少々誤解があるようですので今回はそれについて補足させて下さい。
(※ちなみにこのブログは
脱初級者=楽しむだけのフットサルから一つ上を目指す人向けであることが大前提です)
チャレンジする意義については
過去の記事で触れてきたとおり個人・チームの成長には必要なものです。
チームメイトの積極的なプレーを支持しミスに寛容であることは
仲間として信頼関係を築き楽しくボールを蹴るための必要条件でもあります。
しかしその関係はどちらか一方の配慮でなく相互努力があってこそ成り立つものです。
特にボールを持たないプレーヤーの高いサポート意識が問われるフットサルでは
ボール保持者が取り得る行動選択肢の数はチームメイトの努力によって作られます。
つまり各局面においてボール保持者が様々なプレーの可能性を見出せること
そして実際にチャレンジする機会を得られることはすべて
チームメイトの存在あってのことなのです。
ここでその恩恵を受けるボール保持者として忘れてはならないのが
チームメイトの用意した選択肢を選ぶ選ばないと問わず、
その行為の意義をきちんと”受け止める”という行為です。
いくら仲間だからと言ってもサポートする側として
明らかに自分の行為が視野に入っていない、声が届いていないと感じることが多くなれば
感情論抜きに”サポート意欲”を失い
別の機会で必要な一歩を踏み出させなくさせてしまいます。
この場合、
スタンドプレー → 味方のサポートの軽視・無視 → サポート力の低下
→ 行動選択肢の減少 → 挑戦機会の損失 or 強引な行動の誘発 → スタンドプレー...
という悪循環を招きます。
だからと言って誤解して頂きたくないのは
これらが局面を”独力で打開すること”への否定ではないということです。
各局面でいくら味方が選択肢を増やしてくれたと言っても選ぶのは常にボール保持者です。
”自分にとって有効”で、”チームにとって有益”である選択は
本人にしか判断できないのですからそれは当然です。
ただその判断がチームやチームメイトを無視した利己的な思考で導き出された結果だと
チーム内の”仲間のために努力する意識”を減退させて
「味方の支持(精神的支え)」と「サポート(行動的支え)」を得られず
チームとしての戦力低下のみならず、
楽しさの追求にも支障を与えるということが言いたいだけなのです。
「驕り」とは”自信”の冗長部分から生まれるものを指します。
そしてそれに伴う排他的・盲目的な言動は
チームとして活動する以上は本人の”自由”とは明確に区別して問題視すべきです。
なぜなら驕りにより生ずるプレーは総じて”利己的”だからです。
それは時に「盲目的な行動」として
チームメイトの存在意義の軽視からスタンドプレーが先行し、
時に「排他的な行動」として他人のプレーを尊重せずに
攻撃・否定を伴った言動で人を傷つけることすらします。
これらはチームが目指す目的別に考えても
「みんなの力で勝ちたい!」というものに対しては”非効率”ですし、
「みんなで楽しみたい!」というものに対しては方向性すら異なってしまいます。
フットサルを楽しみ追究していけば
いずれは各局面における個人的なプレーよりも
他者との連携にどう絡みどう繋げるのかに
フットサルの奥深さと楽しさを見出せるようになるはずです。
このようなチーム全体の利益を考える段階になったとき
誰もが自身に潜む「驕り」と向き合わなければならなくなるでしょう。
これは学生が社会に出たときに直面するものと同じです。
◎詳しくは >> フットサル情報サイト 『 フットサルフリークス 』 [ 過去記事ランキング ]
自信を持って積極的にチャレンジする意義を否定するものだ、
自由を奪われ束縛された中でプレーしても楽しくはない、
と受け取られてしまったようですが、そうではないのです。
少々誤解があるようですので今回はそれについて補足させて下さい。
(※ちなみにこのブログは
脱初級者=楽しむだけのフットサルから一つ上を目指す人向けであることが大前提です)
チャレンジする意義については
過去の記事で触れてきたとおり個人・チームの成長には必要なものです。
チームメイトの積極的なプレーを支持しミスに寛容であることは
仲間として信頼関係を築き楽しくボールを蹴るための必要条件でもあります。
しかしその関係はどちらか一方の配慮でなく相互努力があってこそ成り立つものです。
特にボールを持たないプレーヤーの高いサポート意識が問われるフットサルでは
ボール保持者が取り得る行動選択肢の数はチームメイトの努力によって作られます。
つまり各局面においてボール保持者が様々なプレーの可能性を見出せること
そして実際にチャレンジする機会を得られることはすべて
チームメイトの存在あってのことなのです。
ここでその恩恵を受けるボール保持者として忘れてはならないのが
チームメイトの用意した選択肢を選ぶ選ばないと問わず、
その行為の意義をきちんと”受け止める”という行為です。
いくら仲間だからと言ってもサポートする側として
明らかに自分の行為が視野に入っていない、声が届いていないと感じることが多くなれば
感情論抜きに”サポート意欲”を失い
別の機会で必要な一歩を踏み出させなくさせてしまいます。
この場合、
スタンドプレー → 味方のサポートの軽視・無視 → サポート力の低下
→ 行動選択肢の減少 → 挑戦機会の損失 or 強引な行動の誘発 → スタンドプレー...
という悪循環を招きます。
だからと言って誤解して頂きたくないのは
これらが局面を”独力で打開すること”への否定ではないということです。
各局面でいくら味方が選択肢を増やしてくれたと言っても選ぶのは常にボール保持者です。
”自分にとって有効”で、”チームにとって有益”である選択は
本人にしか判断できないのですからそれは当然です。
ただその判断がチームやチームメイトを無視した利己的な思考で導き出された結果だと
チーム内の”仲間のために努力する意識”を減退させて
「味方の支持(精神的支え)」と「サポート(行動的支え)」を得られず
チームとしての戦力低下のみならず、
楽しさの追求にも支障を与えるということが言いたいだけなのです。
「驕り」とは”自信”の冗長部分から生まれるものを指します。
そしてそれに伴う排他的・盲目的な言動は
チームとして活動する以上は本人の”自由”とは明確に区別して問題視すべきです。
なぜなら驕りにより生ずるプレーは総じて”利己的”だからです。
それは時に「盲目的な行動」として
チームメイトの存在意義の軽視からスタンドプレーが先行し、
時に「排他的な行動」として他人のプレーを尊重せずに
攻撃・否定を伴った言動で人を傷つけることすらします。
これらはチームが目指す目的別に考えても
「みんなの力で勝ちたい!」というものに対しては”非効率”ですし、
「みんなで楽しみたい!」というものに対しては方向性すら異なってしまいます。
フットサルを楽しみ追究していけば
いずれは各局面における個人的なプレーよりも
他者との連携にどう絡みどう繋げるのかに
フットサルの奥深さと楽しさを見出せるようになるはずです。
このようなチーム全体の利益を考える段階になったとき
誰もが自身に潜む「驕り」と向き合わなければならなくなるでしょう。
これは学生が社会に出たときに直面するものと同じです。
◎詳しくは >> フットサル情報サイト 『 フットサルフリークス 』 [ 過去記事ランキング ]
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